ファショコン通信

ファショコン通信はブランドやデザイナーの観点からファッションとモードを分析するファッション情報サイトです

オートクチュール

「オートクチュール(haute couture)」の意味について

クリスチャン・ディオール2018-2019秋冬 オートクチュール コレクション(Photo by Emma Summerton for Dior)
オートクチュール(haute couture)」。この語感が魅惑の響きと感じる方は、世の中に多々いらっしゃることであろう。確かに、えもいわれぬゴージャス感を秘めた単語のように感じられるものではある。私の場合、些細な理由から、「オートクチュール」という単語に少なからず拒否反応を起こしがちなのであるが、それはこの際、大きな問題ではない。

さて、この「オートクチュール(haute couture)」という単語。これに対して具体的なイメージを抱くことができている人は、一体どれほど存在するのであろうか。私が思うに、実際問題として、ほとんど存在しないのではなかろうか。
よくよく考えてみれば、具体的なイメージも抱けていないのに、その単語を耳にすると意味もなく幸せな気分になるというのは、おかしな話ではないか。何かわからないのに好きとか嫌いとかの感情が生じるのは理に適っていないと思うのである。ここは1つ、各自なりに意味を明らかにした上で、好きか嫌いかを論ずることにしようではないか。

というわけで、以下において、いわゆる「オートクチュール(haute couture)」の持つ意味について検証してみたいと思う。

「オート(haute)」はフランス語で「高級な」、「クチュール(couture)」も同じくフランス語で「仕立て、縫製」を意味し、単語を並べ訳すと「特注の仕立て服」を指す。つまり、いわゆる既製服に対応する仕立て服(オーダーメード)が「オートクチュール(haute couture)」である、ということになる。
しかし、ファッション業界では通常、「オートクチュール(haute couture)」といえば、パリの高級衣装店組合(通称「サンディカ」)に所属するメゾンのみを指す。

以下、サンディカを中心にオートクチュールについて説明していきたい。

「サンディカ」とは

サンディカはパリの高級衣装店組合(ラ・シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ / La Chambre Syndicate de la Couture Parisienne)の略称である。1868年、シャルル・フレドリック・ウォルト(Charles Frederick WORTH)により創立され、パリ オートクチュール・コレクションとパリ プレタポルテ・コレクションを取り仕切るほか、服飾関係の専門学校も開設している。
シャルル・フレドリック・ウォルトは、1858年に新しい方式の衣装店を設立した。すなわち、従来の衣裳店は顧客の注文に応じて服をデザインして製作する、という受動的な製作方法を採用していたが、ウォルトはあらかじめ創作的な衣服を作り出し、それを顧客に見せて注文をとるという能動的な方式を生み出したのである。より詳細にいえば、まず注文をとっていくつかのサンプルを用意し、その中から顧客は気に入ったものを抽出し、その上で素材を指定する。そして、採寸をした後に数度のフィッティングを経て完成するのである。顧客は上流階級に限られるが、市場範囲に限定はない。これにより、従来の仕立屋と異なる大規模な経営が可能となったのである。

そして、1868年にサンディカが創立、84年には同業者組合として認定され、19世紀の終わり頃までには、規模の大きい衣裳店が250店にも達していたとされている。また、1910年頃、パリ コレクションが定期的に開催され始めた。以上ように、創立当初は特に資格を要求することもなく、多くのクチュリエをメンバーとして迎え入れていたが、それがために創作のないコピーだけの安売り仕立て店もサンディカのメンバーとして多く存在するようになってしまったのである。

そこで、1911年にサンディカを再発足し、オートクチュールと銘打つための厳格な規約を定め、その規約に沿ったクチュリエのみを正式メンバーとして登録させることにした。これにより、オートクチュール自体に付加価値が付く格好となり、サンディカ並びにオートクチュールがファッション業界の最高峰として君臨することとなる。

組合規約の条件を具備して運営している衣装店を「メゾン」と呼ぶ。後に、サンディカを脱退したメゾンでも、継続してオートクチュールの規約を守っているところが多いようだ。規約では、自店のアトリエ(縫製部)で、店主または専属デザイナーが製作した作品のコレクション発表を年2回(春夏と秋冬)、サンディカの定める時期(1月と7月)にマヌカンに着せて顧客やバイヤー、プレスに発表することが義務付けられている。また、バイヤーに対する保護規定として、購入作品は4週間後に一斉に複製権とともに手渡され、報道機関による作品の発表は6週間後に世界一斉に発表することとされている。

つまり、オートクチュール・メゾンは個人の顧客の注文に応じて販売をすることと、バイヤーに複製権とともに譲渡することにより収入を得ているのである。また、最近では、香水、スカーフ、バッグ、アクセサリー、シューズ、さらにはタオルやワインまで手がけ、それらのライセンス料で稼ぐメゾンも少なくない。
以上のような流れで、1960年代まではオートクチュールがモードの主体であった。しかし、1970年代からプレタポルテが主体的地位を得るようになる。

プレタポルテとは、端的には「既製服」を意味する。もとはオートクチュールのデザイナーによる既製服を大衆的な既製服と区別するための呼び名で、「高級既製服」と訳されることもある。
1949年に既製服企業のヴェィユ社が、英語の「レディー・トゥ・ウェア(ready to wear)」の略語として打ち出したものであり、その語源は「準備できている」を意味する「プレ(pret)」と「着る」意味する「アーポルテ(a-porter)」で、「すぐ着られるように準備された」を意味する。質・値段共に大衆向きの「コンフェクション(confection)」と呼ばれる従前の既製服に対し、既製服に求めるものが変化してきたことで、それに対応してより高級な既製服として登場したのがプレタポルテである。

1960年代中頃、パリのプレタポルテ・コレクションは、イヴ・サンローランソニア・リキエル等のオートクチュールのデザイナーによるプレタポルテの発表に始まる。1973年、プレタポルテ組合が設立される。そして、1973年に高田賢三三宅一生クロード・モンタナらプレタポルテ専門のデザイナーが登場し、「黄金の70年代」といわれるプレタポルテ隆盛期を迎える。そして、彼らを追って、日本人デザイナーとして、1975年に鳥居ユキ(Yuki TORII)、1977年に芦田淳、1978年に小篠順子(Junko KOSHINO)、1981年には山本耀司川久保玲らが登場する。

1992年から規約が改正され、若手デザイナーが活躍する場を得る。1993年秋、ルーブル美術館敷地内に常設のショー会場が誕生。発表機会が増え、規模が拡大する流れの中で再び隆盛期を迎えることとなる。
尚、いわゆる「五大コレクション」はプレタポルテである。

結論にかえて

以上のようにオートクチュールの意味を明らかにしてきたわけであるが、皆さんはどのような印象を抱かれたであろうか。

かの「モードの帝王」イヴ・サンローランはオートクチュールに関し、以下ようなことを語ったそうだ。「芸術的衝動を服飾というスタイルで実験したいと思った時、その贅沢な素材と高度な裁断、縫製技術をもつオートクチュールのアトリエこそが、その実現を可能にしてくれる場だ」。
確かに、規約の様々な要件を満たしたメゾンは、服飾というフィルタを通してデザイナーが自己のイメージを表現するシステムとしては、設備・技術ともに世界最高峰であるのは疑いようがない(はず)。また、規模を拡大し、付加価値を与えて価格を上げることで、より多くの利潤をあげることを実現するシステムとしても、完成されたものであることは間違いない。

つまるところ、システムや制度は運用する者の姿勢次第である、というところに行き着く。そうしたことを認識しつつ、オートクチュール・メゾンを構成する人々は、そのシステムが今後も機能し続けるよう、設備・技術の陶冶を続けてほしいと願うものである。

オートクチュールに関連する書籍

オートクチュール関連の書籍の一覧